今日の午前、電話が鳴った。
「明日の講話、担当者が病欠でして…代わりにお願いできませんか?」
またしてもピンチヒッターである。
これまでこの会には5〜6回は呼んでいただいている。
呼ばれるのはありがたいが、正直そろそろネタが尽きたのでは…という気持ちもある。
そこへ明日の講話依頼。そしていきなり聞かれるのだ。
「テーマは? プロジェクターは? レジュメは?」
そんなもの、すぐ答えられるわけがない。
即答できる人がいたら、それはもう職業としての“講師”だ。
一瞬、断る理由は揃っていた。
急だし、準備時間もない。
何より、ネタがあるかどうか自信もない。
それでもなぜか“受けたくなる”のが不思議だ。
本当のところ、私は勝負強いタイプではない。
野球に例えるなら、9回裏二死満塁で代打に立つような華やかな人間ではない。
むしろ「いやいや、もっと上手い人がいるでしょう」と言いたい。
それでも声をかけられると、なんだかんだでバッターボックスに向かってしまう。
結局、そういう性分なのだと思う。
急な依頼というのは、ある意味で“逃げ道”がある。
準備が整わないぶん、完璧を目指さなくていい。
むしろ「今の自分でいくしかない」と腹が決まる。
そして不思議なもので、こういう時ほど大胆になれる。
ふだんなら慎重に避けるような話題にも踏み込めるし、
言葉の選び方もどこか自由だ。
もし不発でも、
「あれは急だったから」で済んでしまう。
その“許される空気”が、心を軽くしてくれる。
だから挑める。だから動ける。
昔、師匠に言われた言葉を思い出す。
「3分話すなら準備に一か月。30分なら3日だ。」
短いほど研ぎ澄ました“核”が必要で、準備に時間がかかる。
長い講話は、自分の人生そのものが語ってくれるから、準備はいらない。
この理屈でいけば、明日の45分は……
だいたい“1日”でいいらしい。
妙に納得してしまうのは、いままさにその“1日”の中にいるからだろう。
そして今回は、プロジェクターもホワイトボードもレジュメも何も持たず、
体ひとつで行く。
余計な武器を持たない分、まっすぐ伝えるしかない。
その潔さが逆に気持ちいい。
明日は、大勢に向けて話すつもりはない。
誰かひとり──
その人の心にだけ、そっと届けばそれで充分だ。
たった一人に伝わる話。
そのために、体ひとつで行く。