昨日、49歳になった。
魚座と牡羊座の分岐点に生まれているせいか、自分にはどこか二面性があるような気がしている。
考え込む自分と、動き出す自分。慎重さと勢い。
そのどちらも確かに自分の中にあるように思う。
もっとも、そんなことを言ってみても、バカであることには変わりがないのだけれど。
けれど最近は、それでいいのだと思うようになった。
むしろこれからは、もっとバカでなければならないのではないかと感じている。
分かったつもりにならないこと。
偉くなった気にならないこと。
人の話をきちんと聞くこと。
そして、新しいことに素直に驚けること。
そういう意味での「バカ」でいたいと思う。
悪くしたい人なんて、いない。
誰だって、良くしようと思って動いている。
けれど、結果として悪くなっていることがある。
丁寧にやったはずなのに。
考え抜いたはずなのに。
それでも、なぜか噛み合わない。
そんな時に必要なのは、「もっと頑張ること」ではなくて、「今を正しく見ること」なのかもしれない。
洋服で、いつもお世話になっているブランドがある。
ECサイトを中心に展開しているところだ。
販売されているプロダクトは、どれもかなり完成されている。
ベーシックなセットアップが多く、シルエットも素材も、細部の作り込みも申し分ない。
それでも、そのブランドは毎年のように改良を加えてくる。
ほんのわずかな違いかもしれない。
けれど、その小さな更新が、確実に「今」に合った一着を生み出している。
このスピード感と企画力。
そして何より、「今を直視する力」。
これが、本当にすごい。
世界も変化し、
人もまた、少しずつ変わっていく。
そしてふと思う。
これを日常で行えるものがあるとすれば、それはモノの整理なのではないかと。
自分の今は、自分を取り巻くモノたちから見えてくる。
クローゼットの中。
机の引き出し。
何気なく置かれている道具たち。
その一つひとつの中に、過去がある。
あの時必要だったもの。
自分を支えてくれていたもの。
けれど、それは今も必要なのだろうか。
感謝を持ちながら、きちんと直視する。
そして、「今に合っているか」を確かめていく。
変わり続ける世界の中で、
変わっていく自分に、
ちゃんと向き合えているか。
整理とは、ただ減らすことではない。
今の自分に合うかどうかを問い続ける行為なのだと思う。
今の自分を直視するための、
とてもシンプルで、確かな方法なのだ。
公民館に、ごみの件で伺うことがある。
そのたびに、決まって出てくる話題がある。
「この傘、どうしたらいいでしょうか」
玄関の隅に、忘れられた傘が何本も立てかけられている。
黒や紺の、どこにでもあるような傘だ。
壊れているわけではない。
開けば、ちゃんと雨をしのげる。
「まだ使えますよね」
「処分してもいいものか迷っていて」
そう言われると、簡単には答えられない。
「よければ使ってください」と声をかければいいかというと、
それもなかなか難しい。
「それ、自分のものだと言われると困るので」
そんな遠慮が、言葉の端ににじむ。
身近な関係の中では、
“もらう”という行為ひとつにも、微妙な気遣いが生まれる。
便利さよりも、距離感の方が大切にされる場面だ。
誰のものでもなくなった傘。
けれど、完全に無関係にもなりきれない。
そんな曖昧な場所に、静かに立てかけられている。
ふと、思い出す。
大正生まれの祖父母が、傘のことを「コウモリ」と呼んでいたことを。
丸く広がるその形は、確かに羽を広げたコウモリのようにも見える。
子供の頃、意味も分からず使っていた言葉だが、不思議と記憶に残っている。
コウモリは、粋な言い回しかもしれない。
ただの傘を、少しだけ違って見せる。
見慣れたものに、もうひとつの輪郭を与える。
昔の人は、そうやって
暮らしの中に、ささやかな遊びを忍ばせていたのだろう。
今、目の前にある傘たちも、
ただの“忘れ物”ではないのかもしれない。
誰かの帰り道。
急な雨。
誰かと歩いた時間。
そうした記憶が、静かに染み込んでいる。
さて、このコウモリたち。
どこへ飛ばしてやるのが、いちばんいいのだろうか。
春の訪れを何で感じるかといえば、いろいろある。
やわらかくなった風だったり、田んぼの雪解けだったり、店先に並ぶ少し明るい色の服だったり。
けれど私の場合、少し変わったもので春を感じる。
海の近くに住んでいるせいか、真夜中の海岸線を爆走する元気のいい若者たちの気配だ。
遠くから、どんどん近づいてくる。
エンジンの甲高い音や、メロディー付きのクラクション。
正直に言えば、ただの騒音でしかない。
迷惑と言われれば、その通りだろう。
それでも不思議なもので、あの音が遠くから聞こえてくると、
「ああ、春が来たな」と思う。
冬のあいだ静まり返っていた海岸線に、急に人の気配が戻ってくる。
若さというのは少し乱暴で、少し騒がしくて、それでもどこか季節の匂いがするものだ。
ところが今年は、なぜだかその音をまだ聞いていない。
遠くからどんどん近づいてくる、あのエンジンの音も、クラクションも聞こえない。
民度が向上したのか。
それとも、単純に人が減ったのか。
静かなのは良いことのはずなのに、どこか物足りない。
春とは、花が咲くことだけではなく、人のざわめきが戻ってくることでもあったのだと、少し思う。
もっとも、もしかしたら理由はもっと単純かもしれない。
海岸線の道路が一部崖崩れになって通行止めなので、ルートが変わっただけなのかもしれない。
だとしたら納得だ。
来年あたり、また遠くからエンジンの音が近づいてきて、あのメロディー付きのクラクションが夜の海に響くだろう。
少し迷惑で、でもどこか春らしい。
私の春一番は、そんな音なのかもしれない。
今日は末の娘の中学校の卒業式。
これで、私たちが中学校に来ることももうないのだと思うと、少し不思議な気持ちになる。
兄弟合わせて、およそ10年。
入学式、運動会、三者面談、部活の送迎。
思えばずいぶん長い時間、この学校に通ったものだ。
この中学校は、田んぼの真ん中にある。
3階の窓から眺める庄内の田園風景は圧巻だった。
秋になれば稲穂が揺れ、
その向こうには高く聳える雲。
あの雲の高さと、庄内の空の広さは、今でも忘れられない。
しかし、そこに通っていた子どもたちにとっては、
きっとそれが当たり前の景色だったのだろう。
大人になって遠くへ行ったとき、
「あの中学校は、実は特別な場所だった」と気づく日が来るのかもしれない。
卒業式のあと、最後のホームルーム。
担任の先生が、生徒たちに歌をプレゼントしてくださった。
映画『サウンド・オブ・ミュージック』より
「山を越えて行け」。
先生は声楽をされているそうで、
教室いっぱいに響く歌声は見事だった。
その真剣さに、男子生徒の何人かは照れくさそうに笑っていた。
けれど、娘はまっすぐ前を向き、
じっと先生の歌を聴いていた。
その後ろ姿を見ながら、
ああ、いい子に育ったな。
そんなことを思った。
家に帰ってから、久しぶりに映画を見直した。
子どもたちは、これからそれぞれの山を越えていく。
そして親は、その背中を見送る。
兄弟合わせて10年通った中学校。
もうここに来ることはないけれど、
田んぼの真ん中の校舎と、
あの高い雲の空は、きっとずっと心に残る。