一月、二月。
毎年のことながら、売上はぐっと下がる。現場の空気も、どこか静かだ。
不思議なのは、生活ごみの量まで目に見えて減ることだ。
同じ人が、同じ家で、同じように暮らしているはずなのに、なぜか量が違う。
考えてみれば、冬は動かない。
雪が降れば外出は減り、買い物の回数も減る。衝動買いもしない。倉庫も物置も開けない。片づけようという気持ちも、どこか春に預けられている。
人の活動量が下がれば、ごみも減る。
ごみは、暮らしの体温計のようなものかもしれない。
熱が下がれば、排出も静かになる。
ところが三月に入ると景色が一変する。
持ち込みのお客様が増え、電話は鳴りっぱなし。
「今からお願いできますか?」
「引っ越しで急いでいて」
「年度内に片づけたいんです」
まるで冬眠から目覚めたように、町が動き出す。
ありがたいことだと思う。
静かな冬があるからこそ、春の躍動が際立つ。
売上の波に一喜一憂することもある。けれど、このリズムは自然の摂理に近い。
ごみの量は、町の鼓動だ。
倫理法人会の派遣講師で、茨城県笠間市にお邪魔している。
羽田から電車に揺られて約2時間。
今回もそうだが年に何回か、自分ではきっと行かないであろう土地に派遣される。
これが面白い。
笠間は坂本九の出生の地ということで、
近隣の主要駅である常磐線友部駅では「上を向いて歩こう」が駅のチャイムで流れていた。
友部駅から水戸線に乗り換えてすぐの笠間駅、駅前のロータリーは400mトラックより小さいイメージ。
その駅から徒歩1分の旅館風ビジネスホテルが、先方が手配した宿だった。
当然和室で、トイレも風呂も共用。
高校生の時こんな旅館でバイトをしていたので、
2階の部屋に通され、することが無いので幅広の窓枠に座り、駅前のロータリーをぼんやりと眺める。
聞き慣れない鳴き声の鳥が防災無線の鉄塔に止まって、しきりに鳴いている。
信号のない横断歩道では、車優勢の地域がらで、全ての歩行者が立ち止まる。
無名の私が、初めて訪れる町で、
初めてお目にかかる無名の人たちと、講演会をつくっていく。
初対面のというのは街でも人でも先入観が、相手をどんどん固めていく。
きっとこんな所だろう、きっとこんな人だろう。
興味を持って知ろうとすれば、先入観とはまったく違う人となりが、
町の輪郭が、静かに立ち上がってくる。知ろうとすることは素敵なことだ。
無名とは、知らないというだけのことだ。
もちろん、相手も自分のデータベースから私をプロファイリングしてくる。
無名の私の講演会。
もちろん大きな期待があるわけではないだろう。
それでも全力を尽くす。
講演会が終わって、どうやら第一印象とは違った感想を持ったであろう主催者が駆け寄ってきた。
高校生の息子が「本棚を買ってくれ」と言った。
組み立てて、一緒に本を並べ替える。背表紙には、私の知らないタイトルが並ぶ。ちゃんと自分の世界を歩いているのだな、と少し嬉しくなる。
「どれか貸してくれ」と言うと、差し出されたのは
『20代で得た知見』(F 著)だった。
全く知らない本だったがページを開くと、痛々しいくらい素の人間の“生”のつぶやきが、そのまま綴られている一冊だ。格好もつけず、正しさにも寄りかからず、ただ心の奥にある感情を差し出してくる。その世界観に、ニヤリとしてしまった。
高校生の頃の自分もここに呼び寄せて一緒に読み進める。当時、未来は広くて、めちゃくしゃ怖かった。期待もあるのに、不安のほうがはるかに大きい。自分は何者になるのか。どう生きるのか。と
48歳になっても、問いは消えない。経験は増えた。失敗も重ねた。それでも世界は広いままだ。進めば進むほど、まだ知らない景色がある。不安と期待は、今も隣り合わせだ。
この本のテーマは、私にとっては「愛」だなと感じた。
どう自分を愛すのか。
どう人を愛すのか。
16歳にも16歳なりの答えがあり、
48歳には48歳なりの答えがある。
この本を、寝る前に少しずつ読みすすめるのが最近の楽しみだ。
あからさまな反抗期も無いように思える、いわゆる良い子である息子。
だがこんな本を読んで
ちゃんと悩み、ちゃんと青春をしている。そのことが何より嬉しい。
16歳も、48歳も、
同じ問いを抱えながら、生きている。
冬のオリンピックが終わると、やはり少し寂しい。
あれだけ毎日、家族で一喜一憂していた時間が、ふっと静かになる。
けれど今回、強く感じたのは、日本人選手の“存在感”だった。
以前のような「国を背負う」という空気は、どこか薄れているように思う。
もちろん代表であることに変わりはない。けれど悲壮感よりも、自分をどう表現するかに重心がある。
それがとても気持ちよかった。
技の難易度やメダルの色以上に、
「これが私の滑りです」
「これが今の私です」
と差し出している姿が印象に残った。
楽しんでいる。
もちろん簡単な言葉ではない。
あの舞台で楽しむには、どれだけの積み重ねが必要か。
どれだけ自分と向き合ってきたか。
だからこそ、その“楽しむ姿”が嘘ではなく、本物に見える。
国を背負う強さから、
自分を解き放つ強さへ。
どちらが上という話ではない。
けれど、今の在り方は、見ていてどこか軽やかで、成熟を感じる。
勝ったかどうかより、
出し切れたかどうか。
メダルの色もそれほど重要ではないなと心から感じられた。
その基準で語られるスポーツは、美しい。
もしかすると私たちも、
「背負わなくていい」「もっと自分でいい」
そんな許可を、彼らから受け取っているのかもしれない。
今度はWBCとまたコンテンツに踊らせられる。
来月、いよいよ中学の卒業式を迎える娘。
その式で歌われる合唱曲の伴奏オーディションが先日あった。
娘が手を挙げたのは「大地讃頌」。
誰もが一度は歌ったことのある、あの力強い合唱曲だ。
半年以上、この曲を念頭に練習してきた。
家のアップライトピアノの前に座る背中を、私は何度も見てきた。
夜も、休日も、同じフレーズを繰り返し弾く音が、家の空気の一部になっていた。
オーディション後の感想は「まあまあ」。
娘の「まあまあ」は、だいたい「かなり良い」の意味だ。
けれど先生は、感情を前面に出すタイプの演奏を好むらしい。
結果は、落選。
小林家の人々は、どうも主役より脇役を好む。
クレジットに大きく名前が出るより、全体を支える立場に安心する。
娘の伴奏も、まさにそうだった。
「伴奏は主役じゃないから」
そう言って、歌を引き立てる構成を選んでいた。
でも同時に、
「だから評価されないのかも」とも。
私は本心からこう言った。
「伴奏に徹するの、かっこいいと思うよ」
本当にそう思う。
支える力は、簡単には身につかない。
けれど大人になった今、もうひとつ感じる。
主役を張る場面も、人生には必要だということ。
脇役に徹する強さを知っている人が、
いつか主役に立ったら、きっと深い。
卒業式の舞台には立てなかったけれど、
娘の半年間は消えない。
娘がいつか、自分の意志で中央に立つ日を、
私はそっと見守りたい。