今日は節分。
季節の分かれ目で、かつて立春を一年の始まりとしていた頃の、いわば大晦日のような日だという。
そんな日に、私は車をぶつけられた。
駐車場に停めていた9年目のプリウスくん。
少し離れたところで、バックしてくる軽自動車が視界に入った。
「あ、近いな」
そう思った次の瞬間、派手な音とともにゴツん。
ぶつかる瞬間を、はっきり目撃してしまった。
手を振って制止すればよかったのかもしれない。
声を出していれば防げたのかもしれない。
後からなら、そんな考えはいくらでも浮かぶ。
向こうの車はバンパーがグシャグシャ。
一方、こちらは拍子抜けするほど、ほぼ無傷だった。
免許証を見せてもらうと、ゴールド免許のおばあちゃん。
長く無事故で運転してこられたのだろうと思うと、
怒りより先に、気の毒さが湧いてきた。
幸い、誰も怪我はしていない。
手続きは必要だが、それだけで十分だと思えた。
もろもろの厄が落ちて、誰かが持って行ってくれた。そんな気持ちが湧いてきた。
節分のごつんは幸先が良い。それで行こう。
人を育てるということは、何なのだろう。
仕事に限らず、これまでさまざまな立場で人と関わってきたが、振り返ると「自分より下が育っていない」という場面を何度も経験してきた。
私より上の世代は、次々と仕事を振ってくる。
私はそれを右から左へと処理してきた。
量をこなす中で、確かに力はついたと思う。
だが、ふと気がつく。
自分の下が育っていない。
下の世代は、私を当てにする。
「小林さんがいれば何とかなる」
その空気は、安心でもあり、同時に危うさでもある。
この構図が続けば、組織は静かに弱体化していく。
仕事は回っているように見えて、実は“人”が育っていないからだ。
頼まれることに応え続けるのは、気持ちがいい。
評価もされるし、自分の存在価値も感じられる。
けれどそれは、いつの間にか「便利な後輩」「都合のいい中間管理職」を引き受け続けることにもなる。
今、必要なのはもう一段階先の役割だと思う。
自分がやることを減らし、人に任せること。
失敗させ、考えさせ、時間をかけて待つこと。
人を育てるとは、
自分が楽になることでも、
相手を甘やかすことでもない。
組織の未来のために、
あえて自分が“不便になる”選択をすることなのかもしれない。
便利な後輩を卒業する。
それは、次の責任を引き受けるという決意でもある。