会社終わりに、みんなでバーベキューを開催しました。
昨年から復活した恒例行事。今年はついに生ビールサーバーも登場し、ぐっとパワーアップです。
テーブルと椅子には、家財整理でレスキューした“茶箱”を活用。
ざらりとした木の質感がなんとも雰囲気よく、テーブルにすれば味わいが出るし、椅子にすれば不思議と腰が落ち着く。あぐらをかいても大丈夫で、思いのほか座り心地がいいのです。
そして今回の目玉は、鉄砲撃ちの方からいただいた“イノシシ肉”。
ジビエと聞くと、どうしても「クセが強い」「硬い」という印象がつきまといますが──ひと口食べて驚きました。臭みはまったくなく、むしろタンパクでふっくら。噛むほどに優しい旨味が広がり、「これ本当にイノシシ?」と皆で顔を見合わせるほどでした。ジビエのイメージが覆された瞬間です。
夜風に吹かれながらの一杯と、茶箱テーブルを囲んで味わう山の恵み。
そして何より、普段の仕事中には聞けないスタッフの“生の声”があちこちから飛び出してくるのも、こうした時間ならではの発見でした。
今年の夏の夜は、ちょっと特別なバーベキューになりました。
昨日はお盆でお墓参りを済ませ、夕食の席で母や妻と話をしているうちに、自然と「戦争」の話題になった。
私の祖父は通信兵で、子どもの頃によくモールス信号の打ち方を教えてもらった記憶がある。妻の祖父は整備兵で、躾にはとても厳しかったそうだ。母方の祖父は衛生兵で、母が子どもの頃にはペニシリンの注射をお尻に打たれたこともあったという。
それぞれの祖父が、戦場でどんな思いを抱えていたのか、私には想像もつかない。ただ一つ分かるのは、戦争が生活と地続きのものだったということだ。どの家庭でも、男たちは皆、戦地へと赴いていたのだ。父方、母方の祖父の兄弟たちも例外ではなく、帰らぬ人となった。
いま食卓でその話をしている自分にとっては、戦争は遠い過去の出来事に思える。
それでも「皆が行っていた」という事実を前にすると、戦争に行くのが当たり前の世界があったことに、驚かされる。
お盆のひととき、祖父たちの話を通して、もう会うことのできない人々に想いを馳せる。語り継がれる断片から、歴史は今も静かに生きているのだと感じた。
創立50年を間近に控えた事務所には、モノの垢だけでなく、データの垢も積もっている。
それは埃のようにそっと溜まっているわけではなく、時に机の角で足の小指をぶつけたような痛みを伴って存在を主張する。
定休日の事務所にこもり、昨日からその垢を落としている。
今日で終わらせるつもりだったが、どうやら明日までびっちりかかりそうだ。
半世紀の歴史を背負ったデータは、ひとすじなわでは整理できない。
情報というのは不思議なもので、活かす情報にもなれば、ただの置物にもなる。
道具と同じで、使う人によってまったく違う活き方をするからだ。
そのためには、扱う人の力量を探り、「どうなって欲しいのか」を一緒に考える必要がある。
だから書類やデータとにらめっこしているだけでは、ゴールは見えてこない。
情報のアップデートは、ただファイルを入れ替えるだけでは済まない。
それを扱う人間のマインドも変わらなければ、本当の整理はできないのだ。
いや、変わるというよりは、新しいOSをインストールする必要があると言った方がいい。
古いバージョンでは、新しいデータ形式が開けない。
効率も、速度も、そして発想も、最新の環境とは雲泥の差がある。
掃除まで手を伸ばす余裕は今日はない。
書類の山は、相変わらず机の端でこちらを見下ろしている。
「俺の番はいつだ?」と言われているようだが、それは次の定休日に回そう。
外の空は、すでに夏の夕暮れ色。
今日もまた、ひとつのフォルダを閉じて、明日こそは掃除まで…と心の中でだけ予定を立てる。
妻が夫婦割で予約を入れてくれて、映画『国宝』を観に行った。
娘いわく「ポップコーン食べる暇がないほど面白いらしい」映画だそうで、確かにその通りだった。
上演前にはくちゃくちゃと音を立てていた観客も、無音が多いこの映画が始まると、ピタッと手を止めた。
この美しすぎる映画には、ポップコーンが入り込む隙が微塵もない。
何度も涙でスクリーンが霞んだが、それを妻に気づかれないよう、涙を拭わず流しっぱなしにしておいた。
印象深かったのは、主人公の「神様じゃない、悪魔と取引したんだ」という一言。
その一瞬の美しい景色を求め、自分の人生の全てを投げだす生き様に、胸を突かれた。
ふと、ギターのテクニックを手に入れるために悪魔と取引をした——そう語られる伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンが頭をよぎる。
芸を極める者は、時代も国も関係なく、同じ危うい橋を渡るのだろう。
自分ではきっと映画館には観に行かなかったであろう作品。
夏休みのいい思い出になった。
私は、いわゆる“ゴミ屋の倅”だ。
父の仕事柄、子どもの頃からごみと隣り合わせで育ってきた。だからなのか、道端にごみが落ちていると、悲しい気持ちになる。それは時に怒りに変わり、「なんでこんなことをするんだ」とつぶやきながら拾っていた。
そんな習慣は大人になっても変わらない。自家用車にはいつでも拾えるようにゴミ袋を常備し、出先で見かければ迷わず手を伸ばす。だけど、長年続けていると、時々気持ちが重くなることもあった。拾えば拾うほど、「なんでこんなに捨てる人がいるんだ」と考えてしまうからだ。
そんな私に、ある先輩が教えてくれた。
「ゴミを拾うときは、“ラッキー”って言ってみな」
最初は意味がわからなかったが、先輩は続けてこう言った。
「道端のごみは、ラッキーの塊なんだよ。誰かが捨てたラッキーを、ありがたく拾わせてもらう。だから声に出して“ラッキー”」
試しにやってみたら、不思議と気持ちが軽くなった。
空き缶を拾いながら「ラッキー」、コンビニ袋を拾いながら「ラッキー」。小さくても口に出すと、怒りや悲しみよりも、ちょっとしたゲーム感覚が勝ってくる。
「なんでこんなに捨てるんだ」から「今日は何回ラッキーに出会えるかな」に変わった瞬間だった。
考えてみれば、気持ちの持ち方ひとつで同じ行動もまるで違うものになる。ごみを拾うことが、怒りや義務じゃなく、ちょっとした喜びに変わるのだから不思議だ。
今でも私は車にゴミ袋を積んでいる。
だけど、その袋を手に取るとき、昔のように眉間にしわは寄らない。
「ラッキー」
そうつぶやきながら拾ったごみ袋の中には、今日も小さな幸せが詰まっている。