今日は、築15年になる我が家のメンテナンスをせっせとこなしていました。
かつて、建築当時にこだわりにこだわって作ってもらった造作キッチン。タイル貼りのカウンターが自慢だったのですが、最近どうも水漏れが…。「やるしかないか」と、防水コーキング材を片手に、素人なりの応急処置を。
照明も同じく、当時選び抜いたシャンデリア風のブラケットライトが、金属部分に錆が出たり、ガラスがくすんだり。こちらはメラミンスポンジでゴシゴシ。気持ちのいいくらい輝きを取り戻しました。
思えば、家を建てる前は、雑誌を何冊も読み漁って、細部まで設計士さんと相談しながら「私らしい家」を夢見ていたはずなのに。
建てたとたん、現れたのは現実。子育てに追われ、気づけば効率重視。オシャレとかデザインとか、封印したままの日々が続いていました。
でも最近、少しずつ風向きが変わってきました。子どもたちもあと数年もすれば巣立っていく予定。そう思うと、なんだか急に家が「私の場所」としてよみがえってきた気がします。
せっかくこだわって建てた家。くたびれてきたところは手を入れながら、当時のデザインや素材の良さをもう一度見つめ直していきたい。
これからは「使いやすさだけじゃない、心地よさも大事にしたい」と思えるようになった今だからこそ、また少しずつ“家づくり”を楽しめる気がしています。
差し当たって、まずはレコードプレーヤーを置ける部屋を仕立ててみようかなと。
音のある空間、好きなものに囲まれた空間。そんな時間を自分にプレゼントするのも悪くない。
15年目の我が家、まだまだ進化の途中。
これからは、過去の自分が選んだものに感謝しつつ、今の私の“好き”を少しずつ取り入れていく計画です。
今日は空気がカラッとして、風が強く、まるで高原にいるような一日だった。
事務所の前の空き地に広がる草むらが、そよそよと風に揺れている。
その様子を眺めていたら、なんだか時間の流れがゆっくりになったような気がした。
東京では昨日、大雨で河川が氾濫した地域もあったらしく、事務員さんと「うちの子たちは大丈夫だったかな」と自然と話題に上る。
こちらはこんなにも穏やかなのに、同じ日本でこうも違うものかと、不思議な気持ちになる。
「親は子どものことを常に考えているが、子どもが親を思うのはたまにらしい」
以前どこかで読んだそんな言葉を、ふと思い出す。
地震が起きたらどうするか、避難場所はどこか。
連絡手段は一応伝えてあるけれど、いざという時に本当に機能するのだろうか。
もし海外転勤になったら、あの子はちゃんとやっていけるのか。
気にしたところでどうなるわけでもないけれど、親というのはいつも、そんなことばかり考えてしまうものらしい。
とはいえ、今のところ特に連絡はない。
それが、何よりの知らせなのだと思う。
環境省の調べによれば、2022年、日本で発生した食品ロスの量は約472万トン。
1日あたりに換算すると、およそ東京ドーム1杯分にも相当するという。
しかもその約半分が、家庭から出ているというのだから驚きだ。
そんな中、先日参加したビアパーティーで、ふと気づいたことがあった。
いわゆる「食べ放題・飲み放題」形式。
幹事としてはありがたい料金体系だが、
今回は少し様子が違っていた。
料理の補充が、以前より控えめ。
ラストオーダーも早めに切り上げられ、
全体的に「食べ残しを減らす」工夫が感じられた。
これはきっと、フードロス対策なのだろう。
けれど、その一方で、
「食べなきゃ損!」「元を取らなきゃ!」という空気も、
どこかエンタメとして根強く存在している。
子どもには「好き嫌いしない」「いただきますの心を大切に」と教えていながら、
大人たちがその隣で、無理にお腹に詰め込んでいたら、
いったい何が“食育”なのかと考えてしまう。
放題という形式自体が悪いわけではない。
けれど、その楽しみ方に、
ちょっとした“節度”や“意識”があるだけで、
ずいぶん違う未来になるのではないか。
だいいち、食べすぎて健康を害したら、
「元」どころか「損」しているのでは? と思う。
食べ物には、たくさんの手間と時間と命が込められている。
本当に美味しいものは、
たくさん食べることではなく、
ちゃんと味わうことで、心に残っていく。
日々ごみを扱う私たちも、やはり心と胃袋という機関によって命を繋いで頂きたいと願ってやまない。
食べものと、もう少し、丁寧につきあっていきたい。
スーツを仕立てるというのは、実に難しい。
無限とも思えるパターン、ちっちゃな生地サンプル、
そして、鏡の前で「これ、似合うんだろうか?」と自問自答する日々。
正直、あのサンプル生地だけで全体像を想像するのは無理な話しだ。
ついWEBで誰かの着こなしを参考にしてみるものの、
その誰かは当然ながら自分と違う。
似合うかどうか? わからない。
そう、これはもう、経験と失敗が物を言う世界かもしれない。
そんなこんなで
やっと完成した今回の一着だったが、
やはり気になって、仕立て直しを決意する。
違和感はごまかせない。
訪れたのは近所の仕立て直し店。
店先には、80代?ぐらいに見える小柄な女性が座っていた。
一瞬、「大丈夫かな…」とよぎる不安。
だが、その方が放った第一声が、
「LINE登録で10%オフになりますよ〜」
この人、只者じゃない。
そう直感した。
そして意を決して私は告げた。
「裾を15ミリ詰めて、裾幅を20ミリ細く。膝上からテーパードでお願いします」
この繊細なオーダーが伝わるのか?
と思ったのも束の間、「ああ、それなら大丈夫ですね」と、
さらりと受け取る手つきに、職人としての風格がにじんでいた。
10日後、スーツは返ってきた。
パーフェクトだった。
「なんか違う」が、「これが良かったんだ」に変わる瞬間。
たった数ミリの調整が、着る者の気持ちまで整えてくれる。
スーツって、やっぱり不思議だ。
かの凄腕の女性に、心から感謝している。
物は語らない。
そして、語れない。
だから私たちは、物を「思い通りにできる存在」だと信じている。
使うもよし、仕舞うもよし、処分するもよし。
何ひとつ、文句を言ってこないからだ。
けれど、そうやって“思い通り”にした結果、
押入れの奥で、棚の上で、物たちは静かに時を止めてしまう。
まだ使えるのに、使われない。
生かされず、ただ「取っておかれている」。
それは、死蔵された命に似ている気がする。
私は、物にだって“役割”や“願い”のようなものがあると感じている。
食器は食卓で、服は体に寄り添って、
家具や道具は日々の営みを支えるために、生まれてきた。
なのに、それを奪っておきながら、
「捨てるのはもったいない」と自分に言い訳して、閉じ込めているのではないか。
一方で、「我が子」はどうだろう。
語る。語りかけてくる。
そして、決して思い通りにはならない。
心配し、悩み、時に腹を立てながら、
それでも私たちは子を見守る。
なぜなら、その存在に「意思」があり、「未来」があると知っているから。
物には意思も未来もない、と思われがちだけれど、
実は私たちがそれをどう扱うかで、
その“命の行き先”を決めてしまっているのかもしれない。
だから私は、物にも少しだけ、子に向けるような慈しみの目を向けたいと思う。
ただ便利だから、役に立つからではなく、
“今、ここで生きているか?”と問いかけるような目で。
子どもを押し込めて育てることができないように、
物だって、閉じ込めておいてはその価値を発揮できない。
今日も、手に取る。
使ってみる。譲ってみる。
そして、ときには「ありがとう」と言って手放してみる。
物は語らないけれど、
私たちの手の中で、その沈黙が意味を持つときがある。