今日のブログは、年中行事のお歳暮配りの話。
先代の頃から続けてきた習慣も、年々その数は少なくなっている。
何より今年は、お歳暮の仕入れ先が二つも無くなった。
店を閉める人の事情も、続けられなくなる背景も、それぞれにあるのだろう。
時代が静かに形を変えていくのを、こういう場面でふと実感する。
正直、「これって本当に意味があるんだろうか」と
胸の奥でつぶやく自分もいる。
効率や合理化だけを考えれば、
真っ先に見直されるべきものなのかもしれない。
それでも先代から受け継いだ“変わらないもの”がある。
年の瀬に「ありがとう」をかたちにするという、不易のこころ。
これは簡単に手放せるものではない。
頂くカレンダーも多く、
やっぱりこういう時間は悪くない、とどこかで思う。
変わっていくもの(易)と
変わらずに持ち続けたいもの(不易)。
そのあいだで揺れながら、
今年もひとつずつお届け中。
人生というのはおもしろいもので、重なるときはいろんなことが一気に押し寄せてくる。
けれど本当のところを言えば、どこかで何かが停滞しているから、その“つかえ”が後ろの予定や気持ちまでせき止めてしまうのだろう。
小さな見落としや、後回しにしてきたこと。
あるいは、心のどこかに置き去りにした感情。
そういうものが静かに積み重なって、気づけば焦りや不安が膨らみ、パニックの手前まで追い込まれてしまう。
そんなときに大切なのは、
いま起きている“事実”をどう捉えるか。
ただ、これが難しい。
事実と自分の解釈がごっちゃになり、憶測や思い込みが真実のような顔をして紛れ込む。
それが判断を狂わせ、さらに気持ちを曇らせてしまう。
だからこそ、そんなときはペンを持って書き出すのがいい。
アナログだけれど、ノートに書かれた言葉は不思議と冷静さを取り戻させてくれる。
こんがらがった糸がスルスルと解けていくように、次に取るべき行動が見えてくる。
時は師走。
気持ちばかりが先に走りがちだけれど、こういう時季こそ、一つひとつ。
丁寧に、順番に。
それだけで、また流れは動き始める。
舘ひろし主演『港のひかり』を観てきた。
妻が観たいということで、行ったのだが正直あまり期待していなかった。
見る前は、「なぜ舘ひろし」という気がしていたのだがは、あの役にまさしくぴったりだった。
時代遅れの任侠道を生き続ける男という役所が舘さん演じる三浦
観終わってから、心の奥にずっと残る“何か”があった。
それが何なのか帰りの車の中で考えていたら、ふと腑に落ちた。
——ああ、三浦の姿に、父を見ていたんだ。
これまでいろんな人に愛情をもらってきたけれど、
一番近くで影響を受けたのはやっぱり父だった。
不器用で、真面目で、弱さを見せず、
誰かのために動くことを当たり前のように生きてきた人。
三浦の不器用な優しさや、人のために生きようとする姿が、
気づけば父の背中と重なっていた。
だからあの絶望のシーンがあんなにも胸に刺さったのだと思う。
映画の大切なテーマのひとつに、
「強さとは、人のために生きること」という言葉があった。
それは映画の登場人物のものでもあり、
同時に、父が生き方で示してきた言葉でもあった。
『港のひかり』は、ただの映画ではなくて、
私の中に静かに眠っていた“父への感謝”を
そっと照らし出すような時間だった。
最近あまり描かれなくなった父性がこの映画にはある。
気づけば、怒涛の11月が終わった。
今年も残りあと一か月。毎年恒例の「今年の漢字」が話題になる頃だが、私にとっては迷わず『変』の一字だろうと思う。
これほど自分が変化した年は、そう多くない。よく考えれば、今年は歳男でもあった。節目というのは不思議で、どこかで“やっと本当の自分に出会えた”ような感覚が芽生えている。
もちろん、変わることは楽ではない。
いろんな着色、心の壁、見栄、被害妄想めいた妨害工作──すべて自分の心の中で繰り広げられる。自分の小さな城にこもって、王様でいることがいつもの自分を守ることで、つまらないプライドを盾に、人を責めたりしてつまらない自分を繰り返す。
そんな“閉じこもり王”に対して、今年は勇猛果敢な開拓者が現れた。名前は「苦難」。まるで門を叩くように「出てこい」と迫ってきた。
逃げたくても逃げられない、逃げなかったことで、閉じ込められていた王様はやっと解放されたのだと思う。
不思議なもので、解放されてみると周りがよく見えてくる。
すると、今の世の中には、自分と同じように小さな城に閉じこもっている“王様”たちがたくさんいることに気づいた。
かつての自分がそうだったから、心の壁の辛さも、プライドの重さも、よくわかる。
だからだろうか──
そんな王様たちの解放に、ほんの少しでも役に立てたらいいな、なんて。
お節介なのは百も承知だが、それくらいは焼いてみようかという気分にもなっている。
11月を駆け抜けた今、ようやく肩の力が抜けて、少しだけ遠くまで見渡せるようになった。
残り一か月、どんな景色が待っているのか。
変わることを恐れずに、今年のラストを歩いていこうと思う。
今日の午前、電話が鳴った。
「明日の講話、担当者が病欠でして…代わりにお願いできませんか?」
またしてもピンチヒッターである。
これまでこの会には5〜6回は呼んでいただいている。
呼ばれるのはありがたいが、正直そろそろネタが尽きたのでは…という気持ちもある。
そこへ明日の講話依頼。そしていきなり聞かれるのだ。
「テーマは? プロジェクターは? レジュメは?」
そんなもの、すぐ答えられるわけがない。
即答できる人がいたら、それはもう職業としての“講師”だ。
一瞬、断る理由は揃っていた。
急だし、準備時間もない。
何より、ネタがあるかどうか自信もない。
それでもなぜか“受けたくなる”のが不思議だ。
本当のところ、私は勝負強いタイプではない。
野球に例えるなら、9回裏二死満塁で代打に立つような華やかな人間ではない。
むしろ「いやいや、もっと上手い人がいるでしょう」と言いたい。
それでも声をかけられると、なんだかんだでバッターボックスに向かってしまう。
結局、そういう性分なのだと思う。
急な依頼というのは、ある意味で“逃げ道”がある。
準備が整わないぶん、完璧を目指さなくていい。
むしろ「今の自分でいくしかない」と腹が決まる。
そして不思議なもので、こういう時ほど大胆になれる。
ふだんなら慎重に避けるような話題にも踏み込めるし、
言葉の選び方もどこか自由だ。
もし不発でも、
「あれは急だったから」で済んでしまう。
その“許される空気”が、心を軽くしてくれる。
だから挑める。だから動ける。
昔、師匠に言われた言葉を思い出す。
「3分話すなら準備に一か月。30分なら3日だ。」
短いほど研ぎ澄ました“核”が必要で、準備に時間がかかる。
長い講話は、自分の人生そのものが語ってくれるから、準備はいらない。
この理屈でいけば、明日の45分は……
だいたい“1日”でいいらしい。
妙に納得してしまうのは、いままさにその“1日”の中にいるからだろう。
そして今回は、プロジェクターもホワイトボードもレジュメも何も持たず、
体ひとつで行く。
余計な武器を持たない分、まっすぐ伝えるしかない。
その潔さが逆に気持ちいい。
明日は、大勢に向けて話すつもりはない。
誰かひとり──
その人の心にだけ、そっと届けばそれで充分だ。
たった一人に伝わる話。
そのために、体ひとつで行く。