名古屋空港に降り立った瞬間、表示された気温は35℃。
蝉の声こそまだ聞こえませんでしたが、ジリジリと焼きつけるような日差しに、
「ああ、夏がすぐそこまで来ている」と肌で感じました。
その足で向かったのは、国宝・犬山城。
木曽川を望む高台に建つその姿は、まさに威風堂々。
天守閣に上がってみると、その高さに少し足がすくみました。
でも、それ以上に、風が気持ちよかった。
景色が開けていて、遠くまで見渡せて、「いま、ここにいる」という実感が、すとんと胸に落ちてきました。
城下町の散策もまた楽しく、
ふとすれ違った浴衣姿のカップルや、
地元のおじいちゃんの何気ない会話に、旅情を感じました。
そして明日は、人生で初めて岐阜県での講話に臨みます。
これまでさまざまな地域でお話させていただく機会をいただきましたが、
初めての土地というのは、やはり少しだけ胸が高鳴ります。
どんな出会いが待っているのか。
どんな言葉が、この場所で届くのか。
犬山の空の下、歴史の風に吹かれながら、そんなことを静かに思っています。
娘のバレーボール部、三年生最後の大会である総体が終わりました。
これで部活動は引退。そして、私の保護者会長としての任も、ここで一区切りです。
昨年のソフトテニス部に続いて、二年連続の保護者会長。
部活が変われば、関わる人も内容も全く異なり、毎回が新しい挑戦でした。
バレー部特有の熱気、体育館での声援、親同士のつながり…。
学年を越えた温かいチームワークの中で、多くのことを経験させてもらいました。
そんな中、私が日々てんてこまいだったのを見ていた娘は、
「終わって、ゆっくりした?」と何度も聞いてきました。
まるで自分が迷惑をかけていたかのように、どこか責任を感じていたのかもしれません。
「大変だったけど、終わってしまうと不思議と全部いい思い出になるね。
テニス部の時よりも、自分がちょっと成長できた気がするよ」と私が言うと、
娘は「成長って…」と不思議そうな顔。
たしかに、大人になってからの“成長”って、子どもにはピンとこないのかもしれませんね。
でもこの歳になっても、役割や出会いを通じて、自分が少しずつ変わっていく感覚はあるものです。
誰かのために時間を使うというのは、
慌ただしい中にあっても、かけがえのない何かを残してくれるものですね。
ありがとう、バレーボール部。
そして娘よ、本当におつかれさま。
子どもの頃、自分の中に“ちょっと得意なこと”があるだけで、
なんとなく自信が持てた時期があった。
誰かに褒められるたびに、
「自分って、少しはすごいのかも」と思えた。
でも、あるとき気づく。
上には上がいる。
自分の「得意」は、案外通用しない。
その瞬間、自信が少しずつ崩れていく。
それ以来、本気を出すことが、少し怖くなった。
でも、たぶんそれ以上に怖かったのは、
自分の感情を表に出すことだったのだと思う。
悔しい、恥ずかしい、怖い。
そんな気持ちを見せたときに、
「弱いと思われるんじゃないか」と不安だった。
だから私は、感情を隠すために、
強がったり、笑ってごまかしたりする術を身につけていった。
ある日、信頼している人に言われたことがある。
「なんでそんなに平気そうな顔してるの? そんなに強くないくせに」
その言葉が、心に引っかかった。
たしかに私は、鎧のようなものをまとっていたのかもしれない。
大人になった今でも、何かに向き合おうとするとき、
背中の奥に、ゾワッとするような違和感が走る。
あの感覚は、長い間「不安」や「気持ち悪さ」として処理していたけれど、
最近になって、少し見方が変わった。
あれは、もしかしたら――
“伸びしろセンサー”なのかもしれない。
感情が動くとき、
自分にとって大事なものに近づいたとき、
そのセンサーがそっと知らせてくれている。
「ここを越えたら、変われるかもしれないよ」と。
だから最近は、センサーが反応したときこそ、
感情を押し殺すのではなく、少しずつ表に出してみようと思っている。
それでも迷うときは、
誰かに薦められたら、あえて乗ってみる。
ひとりじゃ進めないときほど、
差し出された言葉に乗っかることが、自分を広げるきっかけになることもあるから。
感情を出すのは、今でも少し怖い。
でも、怖いままでもいい。
その先にある“ちょっと新しい自分”に出会えたら、それで十分だと思っている。
我が社のテラスに、またツバメが巣を作ろうとしています。
つい先日、第一陣が無事に巣立っていったばかり。
にもかかわらず、もう次の子育ての準備とは、彼らの切り替えの早さには毎年感心させられます。
ところが今回、巣作りの場所が“網戸の上”という、なかなか厄介な場所でした。
人間の出入りも多く、こちらとしては困りもの。
でも、ふと思ったんです。
「なぜ、すでに空になったあの巣を使わず、新しく作ろうとしているのか?」
これまで彼らは、ひとつの巣で年に2回、子育てをしていました。
それが今回は、前の巣を放置して、新たな場所に挑んでいる。
考えてみれば、ツバメは“巣を作ること”はできても、“巣を壊すこと”はできません。
自分で作ったものに満足できなくても、リセットが効かない。
だからこそ、不便でも新しい場所に挑まざるを得ない。そんな状況だったのかもしれません。
私は思い切って、空になった古い巣を撤去してみました。
すると翌日、なんとその場所に、彼らはまた巣を作りはじめたのです。
つまり、彼らはあの場所を“選ばなかった”のではなく、“選べなかった”。
壊すことができないから、選べなかったのです。
そこから私が学んだのは、
「行き詰まったら、ぶち壊す」という発想。
式年遷宮、20年ごとに神社を建て替える、あの古来からの習わしにも通じるものがあります。
何かを守りすぎて動けなくなることは、私たち人間にもあります。
でも壊してしまえば、また動き出せる。
繁栄の法則とは、実はそこにあるのかもしれません。
今日の一枚は、山形県鶴岡市の関川地区にて。
新潟県との県境にあるこの場所には、毎年梅雨前のこの時期に、なぜか仕事で訪れる機会があります。
ちょうど田植えを終えたばかりの水田。
そこを吹き抜ける風の涼しさと、川のせせらぎの音。
ああ、やっぱりここ、気持ちいいなぁと素直に思います。
この関川地区は、「しな織の里」としても知られています。
しな織とは、しなの木の樹皮の繊維を使った日本最古の織物のひとつ。
現在では新潟県の一部と、この関川にしか残っていない、貴重な技術文化です。
そんな風光明媚な土地ですが、今日ふと目についたのは、ところどころに見られる倒壊した空き家の姿でした。
放置されたまま朽ちてしまった家。
おそらく中には家財もそのままで、それが崩れた家の中から少し覗いてしまっている。
家が壊れると、モノも壊れる。
そして片付けも、安全な作業も、格段に難しくなる。
私たちは、こうした現場を何度も見てきました。
「せめて、家が壊れる前に、中のモノを引き受けてあげられていたら…」
そう思うことも少なくありません。
美しい風景の中に、少し切ない現実が混ざっている。
でもそれが今の地方のリアルであり、そこに私たちの仕事があるんだと思います。
まあ、できることを、できるうちにやるしかないか。
そんなことを思いながら、今日も走り出しました。