創立50年を間近に控えた事務所には、モノの垢だけでなく、データの垢も積もっている。
それは埃のようにそっと溜まっているわけではなく、時に机の角で足の小指をぶつけたような痛みを伴って存在を主張する。
定休日の事務所にこもり、昨日からその垢を落としている。
今日で終わらせるつもりだったが、どうやら明日までびっちりかかりそうだ。
半世紀の歴史を背負ったデータは、ひとすじなわでは整理できない。
情報というのは不思議なもので、活かす情報にもなれば、ただの置物にもなる。
道具と同じで、使う人によってまったく違う活き方をするからだ。
そのためには、扱う人の力量を探り、「どうなって欲しいのか」を一緒に考える必要がある。
だから書類やデータとにらめっこしているだけでは、ゴールは見えてこない。
情報のアップデートは、ただファイルを入れ替えるだけでは済まない。
それを扱う人間のマインドも変わらなければ、本当の整理はできないのだ。
いや、変わるというよりは、新しいOSをインストールする必要があると言った方がいい。
古いバージョンでは、新しいデータ形式が開けない。
効率も、速度も、そして発想も、最新の環境とは雲泥の差がある。
掃除まで手を伸ばす余裕は今日はない。
書類の山は、相変わらず机の端でこちらを見下ろしている。
「俺の番はいつだ?」と言われているようだが、それは次の定休日に回そう。
外の空は、すでに夏の夕暮れ色。
今日もまた、ひとつのフォルダを閉じて、明日こそは掃除まで…と心の中でだけ予定を立てる。
妻が夫婦割で予約を入れてくれて、映画『国宝』を観に行った。
娘いわく「ポップコーン食べる暇がないほど面白いらしい」映画だそうで、確かにその通りだった。
上演前にはくちゃくちゃと音を立てていた観客も、無音が多いこの映画が始まると、ピタッと手を止めた。
この美しすぎる映画には、ポップコーンが入り込む隙が微塵もない。
何度も涙でスクリーンが霞んだが、それを妻に気づかれないよう、涙を拭わず流しっぱなしにしておいた。
印象深かったのは、主人公の「神様じゃない、悪魔と取引したんだ」という一言。
その一瞬の美しい景色を求め、自分の人生の全てを投げだす生き様に、胸を突かれた。
ふと、ギターのテクニックを手に入れるために悪魔と取引をした——そう語られる伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンが頭をよぎる。
芸を極める者は、時代も国も関係なく、同じ危うい橋を渡るのだろう。
自分ではきっと映画館には観に行かなかったであろう作品。
夏休みのいい思い出になった。
私は、いわゆる“ゴミ屋の倅”だ。
父の仕事柄、子どもの頃からごみと隣り合わせで育ってきた。だからなのか、道端にごみが落ちていると、悲しい気持ちになる。それは時に怒りに変わり、「なんでこんなことをするんだ」とつぶやきながら拾っていた。
そんな習慣は大人になっても変わらない。自家用車にはいつでも拾えるようにゴミ袋を常備し、出先で見かければ迷わず手を伸ばす。だけど、長年続けていると、時々気持ちが重くなることもあった。拾えば拾うほど、「なんでこんなに捨てる人がいるんだ」と考えてしまうからだ。
そんな私に、ある先輩が教えてくれた。
「ゴミを拾うときは、“ラッキー”って言ってみな」
最初は意味がわからなかったが、先輩は続けてこう言った。
「道端のごみは、ラッキーの塊なんだよ。誰かが捨てたラッキーを、ありがたく拾わせてもらう。だから声に出して“ラッキー”」
試しにやってみたら、不思議と気持ちが軽くなった。
空き缶を拾いながら「ラッキー」、コンビニ袋を拾いながら「ラッキー」。小さくても口に出すと、怒りや悲しみよりも、ちょっとしたゲーム感覚が勝ってくる。
「なんでこんなに捨てるんだ」から「今日は何回ラッキーに出会えるかな」に変わった瞬間だった。
考えてみれば、気持ちの持ち方ひとつで同じ行動もまるで違うものになる。ごみを拾うことが、怒りや義務じゃなく、ちょっとした喜びに変わるのだから不思議だ。
今でも私は車にゴミ袋を積んでいる。
だけど、その袋を手に取るとき、昔のように眉間にしわは寄らない。
「ラッキー」
そうつぶやきながら拾ったごみ袋の中には、今日も小さな幸せが詰まっている。
先週からピラティスを始めた。
姿勢を良くしたい。ただそれだけの動機だった。
でも、すぐに気づかされた。
姿勢を正すというのは、筋肉を“鍛え直す”ことでもあった。
つまり、使ってこなかった場所に意識を向け、目覚めさせることだった。
レッスンのあと、肩の奥や胸のあたりがズキズキと痛む。
こんなところに筋肉痛?と不思議に思いながらも、それは新鮮だった。
体の深部に埋もれていた“自分の力”を掘り起こしている感覚。
変わるというのは、こういうことなのだろう。
痛みをともなう。でも、それは前に進むときの合図でもある。
ふと思った。
自分に変化を求めることと、会社に変化を求めることは、きっと繋がっている。
うちの会社はもうすぐ設立50年。
変わったのは時代であり、価値観であり、求められるスピードだ。
でも、扱っている商品はあまり変わらない。
「このままでいいのか?」
そんな問いを、ここ数年ずっと胸の中でくすぶらせていた。
けれど、自分自身が変わらずに、
会社に変化を求めるのは違う気がした。
まずは、自分の姿勢から。
姿勢を変えると、呼吸が変わる。
呼吸が変わると、思考が変わる。
思考が変われば、行動が変わる。
それは、会社にだって当てはまるはずだ。
体の奥から伸びていく感覚を、
今、組織にも重ねて見ている。
昨夜、寝る前に何気なくラジオの聞き逃し配信を開いた。
耳に飛び込んできたのは、葛飾北斎の話だった。
彼は生涯で30を超える名前を持ち、改名のたびに古い名を弟子に譲ったという。
弟子はその名を掲げて活動を続け、北斎は新しい名でまた歩き始める。
さらに驚いたのは、名前だけでなく作風まで大胆に変えていたことだ。
積み上げた技術や評価を手放し、まるで新しい画家として生まれ変わるかのように次の表現へ向かう。
守るより壊すことを選び、そのたびに新しい景色を手に入れていったのだろう。
一方で、私たちはしばしば名前に縛られる。
私は三代目社長として会社を継いだ。
先代が築いた名と歴史は、盾にもなれば重荷にもなる。
会社の看板を守る責任と、同時に新しい形へ進化させる役割の狭間で、日々揺れている。
組織を継ぐというのは、単に経営の椅子に座ることではない。
過去を受け取りながら未来をつくる、大胆かつ繊細な作業だ。
硬直化した仕組みを見直し、ときには思い切って壊すことも必要になる。
変化は批判や不安を呼ぶが、それでも新しい風を入れなければ組織は次の段階に進めない。
壊す・手放すというのは勇気がいる。
けれど、それは整理収納の世界でも最も大切な鉄則だ。
不要なものを手放すからこそ、本当に大切なものが見えてくる。
北斎が何度も名を捨て、新たな自分を描いたように、組織も人も、そうしてこそ輝きを増すのだと思う。
もし今の自分や組織に停滞を感じるなら、勇気を持って解体に踏み出してみる。
その先にこそ、まだ見ぬ自分と、まだ見ぬ組織の姿が待っている。