ごみの受け入れをしていると、不思議な時がある。
全く同じ冷凍庫が出てくる日があるのだ。
同じメーカーで、同じ大きさで、同じ色。
冷蔵庫ならまだ分かる。数が多いから重なることもあるだろう。
けれど冷凍庫は違う。そもそも持ち込まれる数が少ない。どちらかと言えばレアな存在だ。
そのレアな冷凍庫が、しかもレアなメーカーのものまで、同じ日に持ち込まれたり、収集に伺った先で続けて出てきたりする。
同じ頃に売られ、同じ頃に使われ、そして同じ頃に役目を終える。
家電にも“寿命の季節”のようなものがあるのかもしれない。
そんなことを考えていた時、私たちの仕事の分類が変わっていくという話を聞いた。
これまで私たちの仕事は、ざっくり言えばサービス業と括られてきた。
けれどこれからは「資源循環業」というような分類に再編されていくのだという。
なるほどと思った。
これまでは不要なものの終着点というイメージだったかもしれない。
けれどこれからは再出発地点という立場になるのだろう。
同じ冷凍庫が同じ日にやってくるのも、単なる偶然ではなく、社会の中でモノが一斉に役目を終え、次の循環へ向かっていく節目のようなものなのかもしれない。
私たちはごみを受け入れているようでいて、実は資源の流れの途中に立っている。
そう思うと、いつもの持ち込みの風景が少し違って見えてくるのだ。
今日は新型バキュームカーの納車日。
バキュームカーを新車で購入するのは平成25年以来、13年ぶりとなる。
創業以来、何台もの車両が会社を支えてきたが、また新しい一台がその列に加わった。
先代の社長である父によれば、昔はバキュームカーというだけで、車両の整備を断られることもあったのだという。
それだけこの仕事には、目に見えない距離のようなものがあったのだと思う。
一昔前は、確かに偏見のような空気があった。
こちらが気にしなくなったのか、それとも社会の方が変わったのか。今ではそうしたことをほとんど意識することがなくなった。
地域の暮らしに必要な仕事として、静かに受け止めてもらえているのだとしたら、それはありがたいことだと思う。
新しい一台は、これからまた何年も地域のそばを走り続ける。
そう考えると、納車の日というのはやはり少し特別な日である。
白い季節からピンク、桜の季節が終わり、菜の花やタンポポの黄色の季節がやってきました。
我が家では、この時期の年中行事である、鯉のぼりの設置作業が行われます。
これまで十数年、私の父と私とで、この設置作業は行われてきました。
まあ、息子も高校2年生なのでもう必要ないようにも思うのですが、父のたっての希望で、高校3年生までは鯉のぼりを上げたいという事で、今年は、忙しい私に変わって、息子と、父(息子から見れば祖父)との共同作業によって上げられることになりました。
まだ見ていませんが、最高に天気の良いこの気持ちの良い日、鯉のぼり、気持ち良く泳いでいるかな〜と思います。
そういえば我が家の鯉のぼりは、吹き流しに父と母、そして息子の計三匹。
あるとき家族の誰かに、「あれ?お父さん私の鯉はいないの?」と聞かれたことを思い出します。
さて、帰ったら見上げてみようと思います。
今年の鯉は、どんな顔で泳いでいるだろうか。
最近、「ペンキが不足しているらしい」とか、「秋には靴が足りなくなるかもしれない」といった話を耳にするようになった。
こういう話題が出てくると、どうしても頭をよぎるのが、昔のオイルショックのトイレットペーパー騒動だ。買いだめが広がり、店頭から紙が消えたという話は有名だが、あの時は実際には本当に無くなったわけではなかったとも言われている。
むしろ「無くなるらしい」という空気が、無くしてしまった。
以前、当時買いだめしたトイレットペーパーがまだ残っているという記事を読んだ記憶がある。笑い話のようだが、これはとても象徴的な出来事だと思う。
備えは大切だ。しかし備えすぎると、誰かの分まで抱え込むことになる。
米の時もそうだった。少し不安になると、人は多めに買う。それが重なると、本当に足りなくなる。結果として社会全体が不安定になる。
備えるというのは、本来は安心のための行動のはずだ。
だから私は、「正しく備える」という言葉がしっくりくる。
例えば、いつもより少しだけ多めに用意しておく。普段使っているものを切らさないようにしておく。それだけで十分だと思う。
過剰に抱え込まなくても、静かな備えはできる。
備えるとは、不安に振り回されることではなく、日常を守ることなのだと思う。
珍しく妻がそんなことを言って、騒ぎ出した。
「今年こそ赤川花火を観たい」と。
思えば昨年は、チケットを取り損ねた。
妻と娘は遠くの屋上ビアガーデンへ。
私は息子と、町中が静まり返った頃を見計らって、ガラガラのファミレスでのんびり夕食だった。
けれど静かな店内にも、尺玉の振動だけは届いてくる。
窓の外には何も見えないのに、「ああ始まったな」と分かるあの感じ。
今ごろ何をやっているのかな、と何度も思った。
赤川花火のすごさは、大きさだけではない。
全国の花火師が競い合う大会で、音楽とぴたりと重なる演出は、もはや一つの作品だ。
最後のワイドスターマインになると、空も地面も一緒に鳴る。
庄内にいると、やっぱり特別な花火だと思う。
だからだろうか。
春のうちから妻が動き出した。
さて今年の花火は、何をやっているのだろう。
できれば今年は、
あの音の真下で観たいものだ。