会議とかMTGというものが、どうも好きになれない。
むしろ、はっきり言えば嫌いな部類だ。
会議がある日というのは、朝からどこか気が重い。
社長なんだから、どんと構えていればいいのだろうけれど、なぜかそうはいかない。
不思議なもので、雑談は好きだ。
スタッフと他愛もない話をしたり、思いつきをポンポン出し合う時間はむしろ楽しい。
ところが、それが「会議」とか「MTG」というフォーマットになると、急に身構えてしまう。
言葉が硬くなり、空気も少し固くなる。
あの感じが、どうも苦手なのだ。
3月は、来年度に向けての社内会議や勉強会が続く。
ほぼ毎日のように予定が入っている。
正直に言えば、逃げ出したい気分になる日もある。
けれど、これをやらないと始まらない。
組織で仕事をしていく以上、方向を共有する時間はどうしても必要だ。
だからこそ思う。
どれだけ価値のある時間にできるのか。
苦手だからこそ、だらだらやりたくない。
ぎゅっと凝縮させたい。
そのためには、やはり準備がものをいう。
何を話すのか。
どこへ向かうのか。
どこで終わるのか。
そしてもう一つ、大事なことがある。
誰が何を言い出すかわからない。
そんな空気をつくっているということ。
それは、本当の意味で価値のある時間になっているということだと思う。
予定通り進んで、
予定通り終わる。
そんな「ちゃんちゃん」で終わる会議やMTGに、あまり意味はない。
思いもよらない一言が、
次の仕事を動かすことがある。
だから会議は、
少しだけ予定外でいい。
一月、二月。
毎年のことながら、売上はぐっと下がる。現場の空気も、どこか静かだ。
不思議なのは、生活ごみの量まで目に見えて減ることだ。
同じ人が、同じ家で、同じように暮らしているはずなのに、なぜか量が違う。
考えてみれば、冬は動かない。
雪が降れば外出は減り、買い物の回数も減る。衝動買いもしない。倉庫も物置も開けない。片づけようという気持ちも、どこか春に預けられている。
人の活動量が下がれば、ごみも減る。
ごみは、暮らしの体温計のようなものかもしれない。
熱が下がれば、排出も静かになる。
ところが三月に入ると景色が一変する。
持ち込みのお客様が増え、電話は鳴りっぱなし。
「今からお願いできますか?」
「引っ越しで急いでいて」
「年度内に片づけたいんです」
まるで冬眠から目覚めたように、町が動き出す。
ありがたいことだと思う。
静かな冬があるからこそ、春の躍動が際立つ。
売上の波に一喜一憂することもある。けれど、このリズムは自然の摂理に近い。
ごみの量は、町の鼓動だ。
倫理法人会の派遣講師で、茨城県笠間市にお邪魔している。
羽田から電車に揺られて約2時間。
今回もそうだが年に何回か、自分ではきっと行かないであろう土地に派遣される。
これが面白い。
笠間は坂本九の出生の地ということで、
近隣の主要駅である常磐線友部駅では「上を向いて歩こう」が駅のチャイムで流れていた。
友部駅から水戸線に乗り換えてすぐの笠間駅、駅前のロータリーは400mトラックより小さいイメージ。
その駅から徒歩1分の旅館風ビジネスホテルが、先方が手配した宿だった。
当然和室で、トイレも風呂も共用。
高校生の時こんな旅館でバイトをしていたので、
2階の部屋に通され、することが無いので幅広の窓枠に座り、駅前のロータリーをぼんやりと眺める。
聞き慣れない鳴き声の鳥が防災無線の鉄塔に止まって、しきりに鳴いている。
信号のない横断歩道では、車優勢の地域がらで、全ての歩行者が立ち止まる。
無名の私が、初めて訪れる町で、
初めてお目にかかる無名の人たちと、講演会をつくっていく。
初対面のというのは街でも人でも先入観が、相手をどんどん固めていく。
きっとこんな所だろう、きっとこんな人だろう。
興味を持って知ろうとすれば、先入観とはまったく違う人となりが、
町の輪郭が、静かに立ち上がってくる。知ろうとすることは素敵なことだ。
無名とは、知らないというだけのことだ。
もちろん、相手も自分のデータベースから私をプロファイリングしてくる。
無名の私の講演会。
もちろん大きな期待があるわけではないだろう。
それでも全力を尽くす。
講演会が終わって、どうやら第一印象とは違った感想を持ったであろう主催者が駆け寄ってきた。
高校生の息子が「本棚を買ってくれ」と言った。
組み立てて、一緒に本を並べ替える。背表紙には、私の知らないタイトルが並ぶ。ちゃんと自分の世界を歩いているのだな、と少し嬉しくなる。
「どれか貸してくれ」と言うと、差し出されたのは
『20代で得た知見』(F 著)だった。
全く知らない本だったがページを開くと、痛々しいくらい素の人間の“生”のつぶやきが、そのまま綴られている一冊だ。格好もつけず、正しさにも寄りかからず、ただ心の奥にある感情を差し出してくる。その世界観に、ニヤリとしてしまった。
高校生の頃の自分もここに呼び寄せて一緒に読み進める。当時、未来は広くて、めちゃくしゃ怖かった。期待もあるのに、不安のほうがはるかに大きい。自分は何者になるのか。どう生きるのか。と
48歳になっても、問いは消えない。経験は増えた。失敗も重ねた。それでも世界は広いままだ。進めば進むほど、まだ知らない景色がある。不安と期待は、今も隣り合わせだ。
この本のテーマは、私にとっては「愛」だなと感じた。
どう自分を愛すのか。
どう人を愛すのか。
16歳にも16歳なりの答えがあり、
48歳には48歳なりの答えがある。
この本を、寝る前に少しずつ読みすすめるのが最近の楽しみだ。
あからさまな反抗期も無いように思える、いわゆる良い子である息子。
だがこんな本を読んで
ちゃんと悩み、ちゃんと青春をしている。そのことが何より嬉しい。
16歳も、48歳も、
同じ問いを抱えながら、生きている。
冬のオリンピックが終わると、やはり少し寂しい。
あれだけ毎日、家族で一喜一憂していた時間が、ふっと静かになる。
けれど今回、強く感じたのは、日本人選手の“存在感”だった。
以前のような「国を背負う」という空気は、どこか薄れているように思う。
もちろん代表であることに変わりはない。けれど悲壮感よりも、自分をどう表現するかに重心がある。
それがとても気持ちよかった。
技の難易度やメダルの色以上に、
「これが私の滑りです」
「これが今の私です」
と差し出している姿が印象に残った。
楽しんでいる。
もちろん簡単な言葉ではない。
あの舞台で楽しむには、どれだけの積み重ねが必要か。
どれだけ自分と向き合ってきたか。
だからこそ、その“楽しむ姿”が嘘ではなく、本物に見える。
国を背負う強さから、
自分を解き放つ強さへ。
どちらが上という話ではない。
けれど、今の在り方は、見ていてどこか軽やかで、成熟を感じる。
勝ったかどうかより、
出し切れたかどうか。
メダルの色もそれほど重要ではないなと心から感じられた。
その基準で語られるスポーツは、美しい。
もしかすると私たちも、
「背負わなくていい」「もっと自分でいい」
そんな許可を、彼らから受け取っているのかもしれない。
今度はWBCとまたコンテンツに踊らせられる。