桜は満開だけれど、みぞれが降ってきた。
昨日は車でクーラーをかけ、今日は暖房だ。
春というのは、前に進んでいるのか戻っているのか、よく分からない季節だ。
それでも昨日は、ツバメのツガイが会社のテラスに巣作りの下見に来ていた。
人間の体感よりも、季節の方が少し先を歩いているように感じる。
車のエアコンがクーラーに切り替わるころになると、もう夏の入り口に立っているのだろう。
そういえば最近、家庭用エアコンの「2027年問題」という話を耳にした。
冷媒ガスの切り替えに伴って、エアコンの価格は2割ほど上がるとも言われている。
それなら今のうちに買った方がいいのかと思うが、新しい機種は省エネ性能も上がっていて、14畳タイプなら年間で12,000円ほど電気代が安くなるという話もある。
つまり、早く買うのが得なのか、待った方が得なのかは、その家の使い方次第ということになる。
エアコンの話はさておき、
会社のスタッフのことを考えると、最近は冬よりも夏の方が怖いと感じるようになった。
好きだった春なんだけれど、夏が重すぎる。
実家の母から電話があった。
50年以上飼い続けている亀を、お寺に許可をいただいてお寺の池に放そうと思う。だから別れを言いに来なさい、という。
その亀は、母が嫁に来る前から家にいた。
祖父が世話をし、その後は80代になった父が世話を続けてきた亀である。
子どもの頃、祖父に「この亀はどうしたの?」と聞いたことがある。
祖父は「海で捕まえてきた」と言った。私は長い間それを信じていたが、大人になってからこの亀が淡水に住むクサガメだと知った。
それでも、50年以上も我が家にいることに変わりはない。
何度も脱走して行方不明になりながら、いつの間にか戻ってきて、毎年卵まで産む。どうやらメスらしい。
放すと聞いたとき、世話もしていないくせに寂しいなとも思ったが、しょうがないなとも感じ、そのまま床についた。
その夜、夢に祖母が出てきた。
祖母と同じ布団に寝ているのだが、祖母は額に汗をかき、苦しそうにしている。やがて空がざわめくようにカラスの群れがやってきて、満月を覆い隠したところで目が覚めた。
祖母の名前は亀恵という。
その名前のこともあってか、この亀は我が家では大事にされてきたところもあるのだと思う。
翌朝、実家へ行き、その夢の話をした。
そして、私が飼ってもいい旨を伝えた。
これからどうなるのか。
冬眠中の亀は知る由もない。
情報の入れ方というのは、今やSNSが中心になっているのだろうと思う。もちろん便利だし早い。けれども、そこにはどうしてもバイアスがかかる。自分の見たいものばかりが集まり、そこから世界を眺めていると、いつの間にか少しおかしな景色になってしまうこともある。
気がつけばテレビもあまり見なくなった。
そんな我が家で、この春ひとつ小さな変化があった。新聞を取ることにしたのだ。
10年ほど前までは購読していたのだが、ある日ポストを覗いても最近来ていないなと思ったら、妻が相談もなく解約していた。2、3日読まなかったのが理由だそうだ。なるほど、確かに読まれない新聞ほど寂しいものはない。
それ以来、新聞とは縁がなかった。
今回、購読することになったきっかけは高校2年になる息子だった。学校の先生に、試験対策なのか新聞を読むようにと言われたらしい。妻は「どうせ読まないでしょ」と反対したが、私は少し違った。
私も読みたい。
そう思って、息子と二人でお願いしてみたところ、無事に受理された。
どの紙がいいのかは息子に任せた。右とか左とか色々あるから、自分で調べて決めてみたらいい。息子なりに調べて、Y紙にした。
新聞が届き始めて、2〜3日ほど経過した。部活が忙しいと読めないかな、と本人も言っていたのだが、思っていたよりしっかり読んでいる様子だ。社会面を開いたまま朝食をとっている姿を見ると、なんだか少しうれしくなる。
以前はタブレットに片耳ワイヤレスイヤホンというのが定番の食卓で、思わず「サイボーグかいな」とツッコミを入れてしまうような朝だった。
それが今は、紙をめくる音がしている。
雀が少なくなっているとか、そんな記事にふと目が止まる。知らないことって、まだまだ多いなあと感じる。世界を見ているつもりで、実はほんの一部しか見ていなかったのかもしれない。
新聞という知りたくない情報も含め流れてくるものを受け取る感覚。
息子と同じ新聞を囲む朝が始まったことも、なんだか静かにうれしい。
今、繰り返し聴いている音楽がある。エマニュエル・シャブリエの《狂詩曲スペイン》だ。
明るくて軽快で、春にぴったりのウキウキする楽曲だと思う。
聴いていると気持ちが自然と前を向く。そして不思議なことに、この曲にはどこか懐かしさがある。初めて聴いたはずなのに、前から知っていたような気がするのだ。もしかすると前世で聴いていたのではないか、そんな冗談のようなことまで思ってしまう。
調べてみると、この曲が作られたのは1883年。日本では明治16年の頃だという。鹿鳴館の時代、文明開化の空気が広がっていた頃に、遠くヨーロッパではこんな軽やかな音楽が生まれていたのだ。当時の日本人の耳にも届いていたのかもしれないと思うとロマンがある。
さらに1961年録音のレコードを見つけたので、思わず注文してしまった。針を落としたとき、どんな音が立ち上がるのか今から楽しみで仕方がない。
雪解けが進み、景色の色が少しずつ変わっていくこの季節。この曲を心地よく感じられるということは、自分自身もまた前を向いている証拠なのかもしれない。
子供との接し方というのは、思春期ともなればなかなか難しい。
昨日、妻と末の娘が何やら言い争いをしていた。
どうしたのと妻に聞くと、娘は
「お父さんには言わないで」
と言っていたそうだ。
理由は分からない。
分からないのだけれど私は、
「娘のいいようにしてやれば?」と伝えた。
すると妻は少し考えてから、
「私もあの頃そうだったな〜」と頷いていた。
親子の関係で「子供に寄り添ってください」という言葉は、人生相談などでよく目にする。
けれど寄り添うというのは、案外むずかしい。
子供を信じること。
子供を自分のものだと思わないこと。
寄り添うというのは自分ではそういうことなのかなと思った。
しかしやってみると中々勇気がいる。
全部を知ろうとしないことも、たぶん大事なのだと思う。
信じるというのは、そばに置いておくことではなく、
手放すという感覚に近いのかもしれない。
892/1000 うるさいプリンター
最近、私の仕事の中で欠かせない作業のひとつに、産業廃棄物のマニフェスト発行がある。マニフェストとは、産業廃棄物