正月に仕事だった長女が、今になって帰省している。
「何食べたい?」と聞くと、返ってきたのは「ココスー!」。
都内にはあまりなくて、子どもの頃から家族で通っていた、あのココスに行きたいのだという。
いつもの四人の食卓に長女が加わると、一気に賑やかになる。
笑い声が重なり、声量も自然と上がる。
気がつくと、周囲の席からちらちらと視線が集まっている。
その横で、長男は「勘弁してよ」という顔。
そして、小さな声でぽつりと聞いてきた。
「これが、都会の声量なの?」
訝しむようなその一言に、思わず笑ってしまう。
都会かどうかは分からないが、少なくともこれは“姉がいる日の我が家の声量”だ。
食後、「ボーリングでも行くか〜」という流れになったが、
妻はボーリングが苦手ということで却下。
代わりに始まったのが、なぜかオセロ大会だった。
優勝賞金3,000円。
この金額が、家族を本気にさせるにはちょうどいい。
一気に場の空気が変わる。
私もオセロなんて久しくやっていなかったので、
父の威厳を保つべく、こっそりネットで定石をチェック。
こういうところは、我ながら抜け目がない。
女性陣は、とりあえずの一手を置いていくスタイル。
作戦は特にない。
息子は、なんとなくコツがあることには気づいていたようだが、
見事に私の術中にハマっていった。
結果、優勝は私。
賞金3,000円を手にして、少しだけ得意顔になる。
長女のおかげで、楽しい夕食だった。
ここ数ヶ月、歯が痛かった。
神経は取ってある歯なので、歯そのものが原因ではないことは分かっていた。
それでも、じんじんとした違和感が続いていた。
歯医者で診てもらうと、
歯の付け根の奥が炎症を起こしているらしい。
さらに診察を進める中で、先生が言った。
「だいぶ、くいしばってますね」
その一言で、点と点がつながった。
思い返せば、痛くなり始めた頃から、
なかなかしんどい状況が続いていた。
気を張り、踏ん張る場面が多かった。
そのとき私は、気持ちの上で歯を食いしばっていた。
そしてその状況に呼応するように、
身体はリアルに、就寝中まで歯を食いしばっていたのだ。
気持ちの緊張と、身体の緊張。
別々のものだと思っていた二つが、
実は同じ線の上にあった。
先生はマウスピースを作りましょうと言った。
しかも保険適用だという。
歯を抜かなければ治らないのでは、
そんなところまで考えていた私は、
原因と対処法が見えたことで、少し肩の力が抜けた。
歯の痛みは、まだ残っている。
でも、
しんどい状況に耐えてきた自分と、
そのまま身体を固め続けていた自分が、
きれいにつながった。
そのことが、
いちばんの処方箋だったのかもしれない。
挨拶をされると、やっぱり嬉しい。
それはきっと、誰にとっても同じだと思う。
朝、すれ違いざまに「おはようございます」と声をかけられるだけで、少しだけ心がほどける。
けれど今日、ふと気づいた。
挨拶の中でも、もう一段階嬉しい瞬間がある。
それは、名前を呼ばれて挨拶をされた時だ。
「おはようございます」ではなく、
「小林さん、おはようございます」と声をかけられる。
その一言に、少しだけ特別な温度が乗る。
自分をちゃんと認識してもらえている感覚。
ただの“そこにいる人”ではなく、“小林という一人”として見てもらえている感覚。
たったそれだけの違いなのに、不思議と心に残る。
今日、そんな挨拶を自然にしている人に出会った。
最初は、「自分だけ名前を呼んでもらえたのかな」と思って、少し嬉しくなった。
けれど様子を見ていると、その人は誰に対しても、当たり前のように名前を添えて声をかけていた。
それが実に自然だった。
わざとらしさもなく、頑張っている感じもない。
ただ、そこにいる人を大切に扱っているだけ、という雰囲気だった。
すごいな、と思った。
同時に、真似したいなとも思った。
仕事でも家庭でも、私たちはつい役割で人を見る。
担当者、作業員、社員、ドライバー。
もちろんそれも必要だが、その前に一人ひとりに名前がある。
名前を呼ぶという行為は、案外エネルギーがいる。
覚える努力もいるし、間違えないように気も遣う。
でも、そのひと手間が、人と人との距離をぐっと縮めるのかもしれない。
考えてみれば、自分の名前を丁寧に呼んでもらった記憶というのは、なぜか長く残る。
逆に、名前を呼ばずに済ませてきた場面も、きっと数えきれないほどある。
挨拶は毎日のこと。
だからこそ、ほんの少しだけ質を変える余地がある。
「おはようございます」に、そっと名前を添える。
それだけで、同じ言葉が少し違う意味を持ち始める気がする。
今日出会ったその人の姿を見ながら、
挨拶とは礼儀である前に、関係をつくる行為なのだと改めて感じた。
明日から、私も少しずつ試してみようと思う。
ぎこちなくてもいい。
名前を呼ぶところから、人との距離をもう一歩だけ近づけてみたい。
今日は節分。
季節の分かれ目で、かつて立春を一年の始まりとしていた頃の、いわば大晦日のような日だという。
そんな日に、私は車をぶつけられた。
駐車場に停めていた9年目のプリウスくん。
少し離れたところで、バックしてくる軽自動車が視界に入った。
「あ、近いな」
そう思った次の瞬間、派手な音とともにゴツん。
ぶつかる瞬間を、はっきり目撃してしまった。
手を振って制止すればよかったのかもしれない。
声を出していれば防げたのかもしれない。
後からなら、そんな考えはいくらでも浮かぶ。
向こうの車はバンパーがグシャグシャ。
一方、こちらは拍子抜けするほど、ほぼ無傷だった。
免許証を見せてもらうと、ゴールド免許のおばあちゃん。
長く無事故で運転してこられたのだろうと思うと、
怒りより先に、気の毒さが湧いてきた。
幸い、誰も怪我はしていない。
手続きは必要だが、それだけで十分だと思えた。
もろもろの厄が落ちて、誰かが持って行ってくれた。そんな気持ちが湧いてきた。
節分のごつんは幸先が良い。それで行こう。
人を育てるということは、何なのだろう。
仕事に限らず、これまでさまざまな立場で人と関わってきたが、振り返ると「自分より下が育っていない」という場面を何度も経験してきた。
私より上の世代は、次々と仕事を振ってくる。
私はそれを右から左へと処理してきた。
量をこなす中で、確かに力はついたと思う。
だが、ふと気がつく。
自分の下が育っていない。
下の世代は、私を当てにする。
「小林さんがいれば何とかなる」
その空気は、安心でもあり、同時に危うさでもある。
この構図が続けば、組織は静かに弱体化していく。
仕事は回っているように見えて、実は“人”が育っていないからだ。
頼まれることに応え続けるのは、気持ちがいい。
評価もされるし、自分の存在価値も感じられる。
けれどそれは、いつの間にか「便利な後輩」「都合のいい中間管理職」を引き受け続けることにもなる。
今、必要なのはもう一段階先の役割だと思う。
自分がやることを減らし、人に任せること。
失敗させ、考えさせ、時間をかけて待つこと。
人を育てるとは、
自分が楽になることでも、
相手を甘やかすことでもない。
組織の未来のために、
あえて自分が“不便になる”選択をすることなのかもしれない。
便利な後輩を卒業する。
それは、次の責任を引き受けるという決意でもある。